It is not correct to say 全然 is used only in the negative context.
There are many examples of affirmative usage of 全然:
[自己]{じこ}の[主觀的空想]{しゅかんてきくうそう}を[消磨]{しょうま}し[盡]{つく}して[全然]{ぜんぜん}[物]{もの}と[一致]{いっち}したる[處]{ところ}に、[反つ]{かえっ}て[自己]{じこ}の[眞要求]{しんようきゅう}を[滿足]{まんぞく}し[眞]{しん}の[自己]{じこ}を[見]{み}る[事]{こと}ができるのである。
[快樂論者]{かいらくろんしゃ}の[いふ]{いう}[樣]{よう}に[人間]{にんげん}が[全然]{ぜんぜん}[自己]{じこ}の[快樂]{かいらく}を[求]{もと}めて[居]{い}ると[いふ]{いう}のは[頗]{すこぶ}る[穿]{うが}ち[得]{え}たる[眞理]{しんり}の[樣]{よう}であるが、[反つ]{かえっ}て[事實]{じじつ}に[遠ざかつ]{とおざかっ}たものである。
[氏]{し}に[從へ]{したがえ}ば[人性]{じんせい}は[全然]{ぜんぜん}[惡]{あく}[であつて]{であって}[弱肉強食]{じゃくにくきょうしょく}が[自然]{しぜん}の[状態]{じょうたい}である。
[唯]{ただ}[觀念成立]{かんねんせいりつ}の[先在的法則]{せんざいてきほうそく}の[範圍内]{はんいない}に[於]{おい}て、[而]{しか}も[觀念結合]{かんねんけつごう}に[二つ]{ふたつ}[以上]{いじょう}の[途]{みち}があり、[此等]{これら}の[結合]{けつごう}の[強度]{きょうど}が[強迫的]{きょうはくてき}ならざる[場合]{ばあい}に[於]{おい}てのみ、[全然]{ぜんぜん}[選擇]{せんたく}の[自由]{じゆう}を[有]{ゆう}するのである。
[心理學者]{しんりがくしゃ}は[内外]{ないがい}と[いふ]{いう}[樣]{よう}に[區別]{くべつ}をするが[意識現象]{いしきげんしょう}としては[全然]{ぜんぜん}[同一]{どういつ}の[性質]{せいしつ}を[具へ]{そなえ}て[居]{い}るのである。
[獨]{ひと}り[人間]{にんげん}に[於]{おい}て[純粹持續]{じゅんすいじぞく}は[全然]{ぜんぜん}[物質]{ぶっしつ}に[打]{う}ち[勝つ]{かっ}て[自由]{じゆう}の[域]{いき}に入ることができたのである。
from [西田]{にしだ}[幾多郎]{きたろう} 「ベルクソンの[純粹持續]{じゅんすいじぞく}」
[何故]{なぜ}ならば、[若]{も}しも『[法]{ほう}』が[全]{また}く[伸縮]{しんしゅく}しない[固定的]{こていてき}なものであり、[又]{また}[之]{これ}を[運用]{うんよう}する[人間]{にんげん}が[之]{これ}を[全然]{ぜんぜん}[固定的]{こていてき}なものとして[取扱つ]{とりあつかっ}たとすれば、[世]{よ}の[中]{なか}の『[矛盾]{むじゅん}』した『[我儘勝手]{わがままかって}』な[人間]{にんげん}は[必]{かなら}ずや『[一體]{いったい}[法]{ほう}は[何]{なん}の[爲]{た}めに[存]{そん}するのか?』と[云]{ゆ}うて『[法]{ほう}』を[疑ふ]{うたがう}[でせう]{でしょう}。
from [末廣]{すえひろ}[嚴太郎]{いずたろう} 「[嘘]{うそ}の[効用]{こうよう}」
[其]{そ}の[道中]{どうちゅう}の[宿場]{しゅくば}の[樣]{よう}に[なつて]{なって}、[假名]{かな}で[書]{か}いたものが[行は]{おこなわ}れるのであります。[中]{なか}に[全然]{ぜんぜん}[國語]{こくご}に[なつた]{なった}ものもある。
from [森]{もり}[林太郎]{りんたろう}([森]{もり}[鴎外]{おうがい}) 「[假名遣]{かなづかい}に[關]{かん}する[意見]{いけん}」
[全然]{ぜんぜん}[自發的]{じはつてき}に、[即]{すなわ}ち[少]{すこ}しも[軍部]{ぐんぶ}や[官僚]{かんりょう}の[使嗾]{しそう}を[受]{う}けずに、[さう]{そう}した[小政黨]{しょうせいとう}を[形成]{けいせい}して[行つ]{おこなっ}た。
[又]{また}[或]{あ}る[事項]{じこう}は[全然]{ぜんぜん}[一定]{いってい}の[機關]{きかん}の[專決]{せんけつ}に[委]{ゆだ}ねられて[ゐ]{い}る。
[即]{すなわ}ちそれは[内縁]{ないえん}を[全然]{ぜんぜん}[婚姻]{こんいん}と[同等]{どうとう}[視]{し}し、[苟]{いやしく}も[同棲]{どうせい}・[家計共同]{かけいきょうどう}・[相互扶助]{そうごふじょ}・[子]{こ}の[共同養育]{きょうどうよういく}[等]{など}の[事實]{じじつ}あれば、[たとへ]{たとえ}[屆出]{とどけで}はなくとも[二人]{ふたり}は[法律上]{ほうりつじょう}の[夫婦]{ふうふ}となり、[夫婦]{ふうふ}としてのあらゆる[權利義務]{けんりぎむ}を[帶有]{たいゆう}するに[至]{いた}ると、[定]{たしか}めて[ゐ]{い}るのである。
from [栗生]{くりゅう}[武夫]{たけお} 「[一法學者]{いちほうがくしゃ}の[嘆息]{たんそく}」
[乃]{すなわ}ち、[人類]{じんるい}はこの[滅亡]{めつぼう}を[免]{まぬが}れ、この[墮落]{だらく}から[回復]{かいふく}することの[爲]{た}めには、[一切]{いっさい}の[近代的]{きんだいてき}な[思想]{しそう}や、[傾向]{けいこう}や、[精神]{せいしん}を[捨]{す}てて、[全然]{ぜんぜん}[新]{あたら}しいもの、[謂は]{いわ}ば[超近代的]{ちょうきんだいてき}なものを[取]{と}らなければならぬ。
from [生田]{いくた}[長江]{ちょうこう} - 「[近代派]{きんだいは}」と「[超近代派]{ちょうきんだいは}」との[戰]{たたかい}
Note that the furigana above are meant to aid the modern reader, they do not reflect the historical kana usage.